自然な写像
ベクトル空間の構造のみから(それ以外の情報によらず)定まる写像を、ベクトル空間の自然な写像といいます。
ここでは、ベクトル空間 $V$ から商ベクトル空間 $V / \, W$ への自然な写像 $f : V \to V / \, W$ が存在し、これが線型写像であることを確かめます。
自然な写像
用語(自然な線型写像)
$V$ をベクトル空間、$W$ を $V$ の部分空間とする。$\bm{v} \in V$ に対して $\bm{v} + W \in V / \, W$ を対応させる写像 $f : V \to V / \, W$ を $V$ から $V / \, W$ への自然な線型写像という。
解説
ベクトル空間 $V$ から商ベクトル空間 $V / \, W$ への線型写像が存在し、これを自然な線型写像といいます。
「自然な」という用語について
「自然な($\text{canonical}$)」という用語は、数学(特に代数学)の用語であり、日常的な意味とは別の意味があります。ある数学的な対象があったとき、その対象のみから(それ以外の情報によらず)内在的に定まる概念に対して「自然な」と表現されます。つまり、「自然な」数学的概念とは、与えられた構造などにより自ずから定まる概念です。
この「自然な」という用語は、「標準的な」や「正統な」 といった意味の英語 $\text{canonical}$ に対応しています。$\text{canonical}$ という形容詞は他の分野でも用いられますが、例えば、解析力学や統計力学では、正準変換($\text{canonical transformation}$)や正準分布($\text{canonical distribution}$)のように「正準」という訳があたっています。
注意点(他の自然な線型写像)
ここでは、$f : V \to V / \, W$ を「自然な線型写像」の定義としていません。もし定義とするのであれば、$f : V \to V / \, W$ のみを自然な線型写像と呼ぶというように限定しなければなりませんが、我々はそのように整理していません。
これは、他にも自然な写像といえる線型写像が存在しうるからです。例えば、基底によらず定まる恒等写像(恒等変換)$\text{id}_V$ や、$V$ の双対空間を $V^{\ast}$ のように表すとして、$V$ から $(V^{\ast})^{\ast}$ への写像なども、$V$ のみから内在的に定まるという意味において、自然な線型写像といえます。
したがって、「自然な線型写像」の「自然な」はあくまで形容詞であり、$f : V \to V / \, W$ は自然ば線型写像の $1$ つ(ベクトル空間 $V$ と商ベクトル空間 $V / \, W$ により定まる線型写像)を指していると理解すると良いかと思います。
代数学における自然な線型写像
自然な線型写像は、代数学において自然な準同型という重要な概念として現れます。
線型写像の像と核の定義や同型写像の定義において、ベクトル空間の線型写像は群の準同型写像の特別な場合と捉えることができることに触れました。また、商ベクトルの定義においては、商ベクトル空間は剰余群として一般化されることについても触れました。
このようなことから、群においても自然な準同型が存在することが類推されますし、実際に、$G$ を群、$N$ をその部分群、$G / \, N$ を剰余群とすれば、 $G$ から $G / \, N$ への自然な準同型 $\pi : G \to G / \, N$ が存在するということがいえます。また、環においても同様に自然な準同型が存在します。
線型写像であることの確認
いま、$f : V \to V / \, W$ を自然な線型写像と呼ぶとしていますが、ここで、改めて $\bm{v} \in V$ から $\bm{v} + W \in V / \, W$ への対応が写像であって、かつ線型写像である(和とスカラー倍の演算を保存する)ということを確認します。
写像であることの確認
写像であるための $2$ つの要件に照らし合わせて、$\bm{v} \in V$ から $\bm{v} + W \in V / \, W$ への対応 $f$ が写像であることを確認します。
($1$)任意の $V$ の元に対応する $V / \, W$ の元が存在することの証明
まず、写像の要件($1$)任意の $V$ の元に対して、対応する $V / \, W$ の元が存在することを確かめます。このことは、商ベクトル空間の定義から明らかともいえますが、詳しくは次の通りです。
- 任意の $\bm{v} \in V$ に対して $f(\bm{v}) \in f(V)$ が存在し、$f(\bm{v}) = \bm{v} + W$ となります。
- $f$ は $\bm{v} \in V$ に対して $\bm{v} + W \in V / \, W$ を対応させるので、$\bm{v}$ に対して $f(\bm{v}) \in f(V)$ が存在することはいえます。前提として $f$ をそのように定めているため、この点を証明する必要はありません。
- まだ $f$ が写像であるとはいえないので、$f(\bm{v}) \in V / \, W$ としてはいけません。つまり、$\bm{v}$ の行き先が $V / \, W$ に入るかどうかはまだわからないということです。そして、このことこそ証明すべき点です。
- いま、$f(\bm{v}) = \bm{v} + W$ かつ $\bm{v} \in V$ であるから、商ベクトル空間の定義より $f(\bm{v}) \in V / \, W$ となります。
- 商ベクトル空間の定義より $V / \, W = \{ \, \bm{v} + W \mid \bm{v} \in V \, \}$ であるので、$f(\bm{v}) = \bm{v} + W$ かつ $\bm{v} \in V$ ならば $f(\bm{v}) \in V / \, W$ であるといえます。
- したがって $f(V) \sub V / \, W$ であり、任意の $\bm{v} \in V$ に対して、対応する $V / \, W$ の元が存在するといえます。
- (ちなみに)同様にして、任意の $V / \, W$ の元に対して、対応する $V$ の元が存在し、$V / \, W \sub f(V)$ であることがいえます。
- したがって、$\text{Im} f = V / \, W$ であり、$f$ は全射であるといえます。自然な線型写像 $f$ の全射性は他の定理の証明等でも利用できる性質の $1$ つです。
- 以上から、$f$ が写像の要件($1$)を満たすことが確かめられました。
($2$)$f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2}) \Rightarrow \bm{v}_{1} \neq \bm{v}_{2}$ が成り立つことの証明
次に、写像の要件($2$)$f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2}) \Rightarrow \bm{v}_{1} \neq \bm{v}_{2}$ が成り立つことを確かめます。このことは、商ベクトル空間の元が満たす演算規則(定理 4.43(部分空間により定められる集合))に則って確かめることができます。
- 背理法により、$f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2}) \land \bm{v}_{1} = \bm{v}_{2}$ となるような $\bm{v}_{1}, \, \bm{v}_{2}$ が存在すると仮定します。
- ここで、$f(\bm{v}_{1}) = \bm{v}_{1} + W, \; f(\bm{v}_{2}) = \bm{v}_{2} + W$ です。
- $p \Rightarrow q$ の否定は $p \land {}^{\lnot} q$ なので、$f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2}) \Rightarrow \bm{v}_{1} \neq \bm{v}_{2}$ を示すためにその否定である $f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2}) \land \bm{v}_{1} = \bm{v}_{2}$ を仮定しているということです。
- このとき、$\bm{v}_{1} - \bm{v}_{2} = \bm{0} \in W$ であることから、定理 4.43(部分空間により定められる集合)により、$\bm{v}_{1} + W = \bm{v}_{2} + W$ が成り立ちます。すなわち $f(\bm{v}_{1}) = f(\bm{v}_{2})$ となりますが、これは $f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2})$ に矛盾します。
- したがって、$f(\bm{v}_{1}) \neq f(\bm{v}_{2}) \Rightarrow \bm{v}_{1} \neq \bm{v}_{2}$ が成り立ち、$f$ が写像の要件($2$)を満たすことが確かめられました。
以上から、$\bm{v} \in V$ から $\bm{v} + W \in V / \, W$ への対応 $f$ が写像であることが確かめられました。
線型写像であることの確認
上の考察により、自然な写像 $f : V \to V / \, W$ が写像であること(さらには全射であること)が確かめられましたので、次に、$f$ が線型写像であることを確かめます。
線型写像の定義にしたがって、$f$ が和とスカラー倍の演算を保存することを確かめます。
$\bm{v}_{1}, \bm{v}_{2} \in V, \; c_{1}, c_{2} \in K$ とすると、$f : V \to V / \, W$ に関して次のことが成り立ちます。
$$ \begin{split} f(c_{1} \bm{v}_{1} + c_{2} \bm{v}_{2}) &\overset{(\text{i})}{=} (c_{1} \bm{v}_{1} + c_{2} \bm{v}_{2}) + W \\ &\overset{(\text{ii})}{=} \{ \, (c_{1} \bm{v}_{1}) + W \, \} + \{ \, (c_{2} \bm{v}_{2}) + W \, \} \\ &\overset{(\text{iii})}{=} c_{1} \, (\bm{v}_{1} + W) + c_{2} \, (\bm{v}_{2} + W) \\ &\overset{(\text{iv})}{=} c_{1} f(\bm{v}_{1}) + c_{2} f(\bm{v}_{2}) \\ \end{split} $$- ($\text{i}$)$f$ の定め方によります。すなわち、$f$ は $c_{1} \bm{v}_{1} + c_{2} \bm{v}_{2} \in V$ を $(c_{1} \bm{v}_{1} + c_{2} \bm{v}_{2}) + W \in V / \, W$ に移します。
- ($\text{ii}$)$V / \, W$ における和の演算規則によります。$V / \, W$ は商ベクトル空間なので、和の演算規則より、$c_{1} \bm{v}_{1}, \, c_{2} \bm{v}_{2} \in V$ について、$\{ \, (c_{1} \bm{v}_{1}) + W \, \} + \{ \, (c_{2} \bm{v}_{2}) + W \, \} = \{ \, (c_{1} \bm{v}_{1}) + (c_{2} \bm{v}_{2}) \, \} + W$ が成り立ちます。
- ($\text{iii}$)$V / \, W$ におけるスカラー倍の演算規則によります。$V / \, W$ は商ベクトル空間のなので、スカラー倍の演算規則より、$c_{1} \, (\bm{v}_{1} + W) = (c_{1} \bm{v}_{1}) + W$ が成り立ちます。同様に、$c_{2} \, (\bm{v}_{2} + W) = (c_{2} \bm{v}_{2}) + W$ となります。
- ($\text{iv}$)$f$ の定め方によります。すなわち、$\bm{v}_{1} + W = f(\bm{v}_{1}), \; \bm{v}_{2} + W = f(\bm{v}_{2})$ が成り立ちます。
以上から、$f$ が和とスカラー倍の演算を保存すること、すなわち $f$ が線型写像であることが確かめられました。
単射ではないことの確認
ここまでで、ベクトル空間 $V$ から商ベクトル空間 $V / \, W$ への写像 $f : V \to V / \, W$ が存在し、$f$ が線型写像であることが確かめられました。
また、上の考察から $f$ が全射であることも明らかになりましたが、単射ではありません。$f$ が単射でないことは次のように確かめられます。すなわち、$f$ が単射であるための条件に対して、反例をあげます。
- $f(\bm{v}_{1}) = f(\bm{v}_{2})$ かつ $\bm{v}_{1} \neq \bm{v}_{2}$ となるような $\bm{v}_{1}, \bm{v}_{2} \in V$ が存在することを示します。
- $f : A \to B$ が単射であるとき、任意の $a_{1}, a_{2} \in A$ について $f(a_{1}) = f(a_{2}) \, \Rightarrow \, a_{1} = a_{2}$ が成り立ちます。$f$ が単射であれば、行き先が同じであればもとの元も同じになるということです。
- この反例をあげれば良いので、$f(a_{1}) = f(a_{2}) \, \land \, a_{1} \neq a_{2}$ となる $a_{1}, a_{2} \in A$ が存在すること(任意の $a_{1}, a_{2} \in A$ について $f(a_{1}) = f(a_{2}) \, \Rightarrow \, a_{1} = a_{2}$ であることの否定)を示します。
- 具体的には、$\bm{v}_{1}, \bm{v}_{2} \in V, \, \bm{w} \neq \bm{0} \in W$ として、$\bm{v}_{1}, \bm{v}_{2}$ について $\bm{v}_{1} - \bm{v}_{2} = \bm{w}$ が成り立つとします。
- このような $\bm{v}_{1}, \bm{v}_{2} \in V$ が存在することを前提としていいか心許なく思われるかもしれません。この点の妥当性は次のように確かめられます。
- $\bm{v}_{2} \in V$ と $\bm{w} \neq \bm{0} \in W$ があって、$\bm{v}_{2} + \bm{w} = \bm{v}_{1}$ とすれば、$\bm{v}_{2} \in V$ かつ $\bm{w} \in V$($W$ は $V$ の部分空間なので $\bm{w} \in W$ ならば $\bm{w} \in V$)であることから $\bm{v}_{1} \in V$ となります。
- したがって、$\bm{v}_{1} - \bm{v}_{2} = \bm{w}$ となるような $\bm{v}_{1}, \bm{v}_{2} \in V$ を選ぶことができるとわかります。
- いま、$\bm{v}_{1} - \bm{v}_{2} = \bm{w} \in W$ であることから、定理 4.43(部分空間により定められる集合)より、$\bm{v}_{1} + W = \bm{v}_{2} + W$ であり、したがって、$f(\bm{v}_{1}) = f(\bm{v}_{2})$ が成り立ちます。一方で、$\bm{v}_{1} - \bm{v}_{2} = \bm{w}$ かつ $\bm{w} \neq \bm{0}$ であることから、$\bm{v}_{1} \neq \bm{v}_{2}$ となります。
- 以上から、$f : V \to V / \, W$ は単射ではないことが確かめられました。
以上の考察から、$f$ は全射準同型(全射かつ線型写像)ではあるが、同型(全単射かつ線型写像)ではないということが確かめられました。
$V$ と $V / \, W$ が同型でないということは、$V$ と $V / \, W$ の構造が異なることを考えれば明らかにも思われますが、具体的には上のようにして確かめることができます。
まとめ
- $V$ をベクトル空間、$W$ を $V$ の部分空間とする。
- $\bm{v} \in V$ に対して $\bm{v} + W \in V / \, W$ を対応させる写像 $f : V \to V / \, W$ を $V$ から $V / \, W$ への自然な線型写像という。
- 自然な線型写像 $f : V \to V / \, W$ は全射であるが、単射ではない。
- $\bm{v} \in V$ に対して $\bm{v} + W \in V / \, W$ を対応させる写像 $f : V \to V / \, W$ を $V$ から $V / \, W$ への自然な線型写像という。
参考文献
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