恒等写像の行列表示
$n$ 次元ベクトル空間の恒等写像(または恒等変換)の行列表示は、$n$ 次の単位行列であることを示します。
これは、 前項に示した 線型変換の行列表示の最も簡単な例でもあります。
恒等写像の行列表示
定理 4.55(恒等写像の行列表示)
$V$ を $n$ 次元のベクトル空間とすると、$V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の行列表示は単位行列 $E_{n}$ であり、これは基底のとり方によらない。
恒等写像とは
恒等写像(または恒等変換) とは、任意の元を自分自身に移す写像です。
ベクトル空間 $V$ の恒等写像を $\text{id}_{V}$ とすると、$\text{id}_{V}$ は任意の $\bm{v} \in V$ を $\bm{v}$ 自身に移すので、$\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ が成り立ちます。
恒等写像が線型写像であることは、 線形写像の定義から簡単に確かめられます。また、恒等写像 $\text{id}_{V} : V \to V$ の定義域と値域はともに $V$ です。したがって、恒等写像が線型変換であることも、その定義から明らかといえます。
恒等写像の行列表示と単位行列
定理 4.55(恒等写像の行列表示)の前半は、$n$ 次元のベクトル空間 $V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の表現行列が $n$ 次の単位行列 $E_{n}$ であることを示しています。
恒等写像の表現行列は基底に依存しない
恒等写像の特別な性質
前項の 定理 4.54(線型変換の行列表示)でみたように、線型変換の行列表示は基底のとり方により定まり、基底のとり方が異なれば同じ線型変換であっても対応する表現行列は異なります。(これは、一般の線型写像についても成り立ちます( 定理 4.50(線型写像の行列表示))。
一方で、恒等写像の行列表示は基底に依存しないというのが 定理 4.55(恒等写像の行列表示)の後半の主張であり、これは恒等写像について特別に成り立つことです。
前提条件(線型変換の行列表示の定義の仕方)
ただし、この特別な性質は、 定理 4.54(線型変換の行列表示)における、線型変換の行列表示の定め方を前提としています。
すなわち、恒等写像の行列表示が基底に依存しないのは、 定理 4.54(線型変換の行列表示)において、線型変換の行列表示では定義域と値域で同じ基底を選ぶと定めている場合に限ります。
仮に、定義域としての $V$ と値域としての $V$ で異なる基底を選ぶとすると、恒等写像 $\text{id}_{V}$ に対応する表現行列は単位行列にはならず、それぞれの基底のとり方により様々な形をとり得ます。(このような場合を考える必要はありませんが、特別な性質が成り立つ前提条件を理解することは重要です。)
証明
$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ を $V$ の基底とする。 定理 4.54(線型変換の行列表示)より、$\text{id}_{V}$ に対して、次の関係式を満たす $n$ 次正方行列 $A = (\, a_{ij} \,)$ が存在する。
ここで、$\text{id}_{V}$ は恒等写像であり、$1 \leqslant j \leqslant n$ について $\text{id}_{V} (\bm{v}_{j}) = \bm{v}_{j}$ が成り立つから、
したがって、次が成り立つ。
いま、$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ は $V$ の基底であるから、線型独立である。よって、上式において、$a_{ij} = \delta_{ij}$ が成り立つ。したがって $A = (\, \delta_{ij} \,) = E_{n}$ であり、これは基底のとり方によらない。$\quad \square$
証明の考え方
($1$)恒等写像 $\text{id}_{V}$ に対応する表現行列を $A$ として、($2$)$V$ の基底の $\text{id}_{V}$ による像を $A$ を用いて表せば、$\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ であることから $A = E_{n}$ が導かれます。
(1)恒等写像の行列表示
- $V$ の基底を $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ とすると、
定理 4.54(線型変換の行列表示)より、次の関係式を満たす $n$ 次正方行列 $A$ が存在するといえます。$$ \begin{align*} (\, \text{id}_{V} (\bm{v}_{1}), \cdots, \text{id}_{V} (\bm{v}_{n}) \,) = (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A \end{align*} $$
(2)基底をなすベクトルの像
$\text{id}_{V}$ は恒等写像であることから、$1 \leqslant j \leqslant n$ に対して $\text{id}_{V} (\bm{v}_{j}) = \bm{v}_{j}$ が成り立ちます。したがって、上記の式は、次のようになります。
$$ \begin{align*} (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) = (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A \end{align*} $$上式において、$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ のうち $1$ つの要素(ベクトル)に注目すると、次が成り立ちます。
$$ \begin{array} {cc} \tag{$\ast$} \bm{v}_{j} = \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{ij} & (\, 1 \leqslant j \leqslant n \,) \end{array} $$これは、上記の関係式を 線型結合の行列表記としてみたとき、行ベクトルの各成分について成り立つ等式です。
左辺を $n$ 項行ベクトル $(\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,)$ としてみれば、左から $j$ 番目の成分は $\bm{v}_{j}$ になります。
同様に、右辺を $n$ 項行ベクトル $(\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,)$ と $n$ 次正方行列 $A = (\, a_{ij} \,)$ との積とみなせば、次のようになります。
$$ \begin{gather*} (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A = \left( \, \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{i1}, \, \cdots, \, \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{in} \, \right) \end{gather*} $$したがって、右辺の左から $j$ 番目の成分は、$\displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{ij}$ となります。
$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ が $V$ の基底であり線型独立であることから、$a_{ij} = \delta_{ij}$ となります。
$j$ を固定すると ($\ast$)式は、次のように書き下せます。
$$ \begin{gather*} & \bm{v}_{j} = a_{1j} \, \bm{v}_{1} + \cdots + a_{jj} \, \bm{v}_{j} + \cdots + a_{nj} \, \bm{v}_{n} \\ \Leftrightarrow & a_{1j} \, \bm{v}_{1} + \cdots + (a_{jj} - 1) \, \bm{v}_{j} + \cdots + a_{nj} \, \bm{v}_{n} = \bm{0} \\ \end{gather*} $$ここで、$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ が線型独立であることから、$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ の線型関係は自明でない解を持ちません(自明な解しか持ちません)。
したがって、$a_{1j} = 0, \, a_{2j} = 0, \, \cdots, \, a_{jj} - 1 = 0, \, \cdots, \, a_{nj} = 0$ となります。
つまり、$i \neq j$ ならば $a_{ij} = 0$、$i = j$ ならば $a_{ij} = 1$ であり、これは、すべての $j \; (1 \leqslant j \leqslant n)$ について成り立ちます。
したがって、$a_{ij} = \delta_{ij}$ が成り立ちます。
- $\delta_{ij}$ は
クロネッカーのデルタを表します。$$ \begin{align*} \delta_{ij} = \left\{ \begin{array} {cc} 1 & (\, i = j \,) \\ 0 & (\, i \neq j \,) \end{array} \right. \end{align*} $$
- $\delta_{ij}$ は
クロネッカーのデルタを表します。
以上から、$A = (\, \delta_{ij} \,) = E_{n}$ が成り立つことが確かめられました。
これまでの考察は $V$ の基底 $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ のとり方によりません。したがって、$V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の行列表示は、基底のとり方によらず、単位行列 $E_{n}$ であるといえます。
可換図式による表現
恒等写像の行列表示の可換図式
恒等写像の表現行列を可換図式で表すと、次のようになります。(可換図式については、 可換図式による表現を参照ください。)

可換図式の構成と意味
上記の可換図式は、 線型変換の行列表示の可換図式をもとに、特に、線型変換が恒等写像である場合に変更した構成となっています。
ここで、任意の $\bm{v}$ に対して $\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ が成り立ちます。すなわち、恒等写像(恒等変換)により $\bm{v}$ は $\bm{v}$ 自身に移されます。
また、$\bm{v} \in V$ を基底 $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ の線型結合として表したときの座標ベクトルを $\bm{x}$ として、$V$ から $K^{n}$ への同型写像を $\psi$ とすると、$\bm{v}$ と $\bm{x}$ との間に $\bm{x} = \psi(\bm{v})$ が成り立ちます。
可換図式の経路と線型変換の対応
このとき、恒等写像 $\text{id}_{V}$ の表現行列 $E_{n}$ は、次のように表せます。
したがって、これを用いて $E_{n} \, \bm{x}$ を求めると、
となり、恒等写像 $\text{id}_{V}$ による関係式 $\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ が、表現行列による関係式 $\bm{x} = E_{n} \, \bm{x}$ に対応することが確かめられます。
また、$\bm{x}$ を $n$ 項列ベクトルとして見れば、任意の $\bm{x}$ に対して $\bm{x} = E_{n} \, \bm{x}$ が成り立つということから、$\text{id}_{V}$ の表現行列が $n$ 次の単位行列であると納得できます。
まとめ
- $V$ を $n$ 次元のベクトル空間とすると、$V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の行列表示は単位行列 $E_{n}$ であり、これは基底のとり方によらない。
参考文献
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