線型変換の行列表示(2)

線型変換の最も簡単な例として、$n$ 次元ベクトル空間の恒等写像(または恒等変換)の行列表示が $n$ 次の単位行列であることを示します。

恒等写像の行列表示


定理 4.55(恒等写像の行列表示)

$V$ を $n$ 次元のベクトル空間とすると、$V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の行列表示は単位行列 $E_{n}$ であり、これは基底のとり方によらない。



$V$ における恒等写像(または恒等変換) $\text{id}_{V}$ は任意の $\bm{v} \in V$ を $\bm{v}$ 自身に対応させる写像であり $\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ が成り立ちます。$\text{id}_{V}$ が線型写像であることは簡単に確かめられます。定理 4.55の前半は、$n$ 次元のベクトル空間 $V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ を線型写像としてみれば、その表現行列は $n$ 次の単位行列 $E_{n}$ に対応するということを示しています。

前項の定理 4.54(線型変換の行列表示)でみたように、線型変換の行列表示は基底のとり方により定まり、基底のとり方が異なれば同じ線型変換であっても対応する表現行列は異なります。(このことは、一般の線型写像についても成り立ちます(定理 4.50(線型写像の行列表示))。一方で、恒等写像の行列表示は基底のとり方によらないというのが定理 4.55後半の主張であり、これは恒等写像について特別に成り立つことです。このことは、下の証明にあるように $V$ の基底に着目することで確かめられます。

ただし、このことが成り立つのは、定理 4.54(線型変換の行列表示)において定めたように、線型変換の行列表示においては定義域と値域で同じ基底をとるという前提が成り立つ場合に限ります。仮に、定義域としての $V$ と値域としての $V$ で異なる基底をとれば、恒等写像 $\text{id}_{V}$ に対応する表現行列は単位行列にはならず、それぞれの基底のとり方により様々な形をとり得るということになります。



証明

$V$ の基底を $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ とすれば、定理 4.54より、次の関係式を満たす $n$ 次正方行列 $A = (\, a_{ij} \,)$ が存在する。

$$ (\, \text{id}_{V} (\bm{v}_{1}), \cdots, \text{id}_{V} (\bm{v}_{n}) \,) = (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A $$

ここで、$1 \leqslant j \leqslant n$ について $\text{id}_{V} (\bm{v}_{j}) = \bm{v}_{j}$ が成り立つから、

$$ (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) = (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A $$

したがって、

$$ \begin{array} {cc} \bm{v}_{j} = \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{ij} & (\, 1 \leqslant j \leqslant n \,) \end{array} $$

が成り立つ。また、$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ は $V$ の基底であり線型独立であるから、$a_{ij} = \delta_{ij}$ である。したがって $A = (\, \delta_{ij} \,) = E_{n}$ であり、これは基底のとり方によらない。$\quad \square$



証明の骨子

恒等写像 $\text{id}_{V}$ に対応する表現行列を $A$ として、$V$ の基底の $\text{id}_{V}$ による像を $A$ を用いて表せば、$\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ であることから $A = E_{n}$ が証明できます。

  • 恒等写像 $\text{id}_{V}$ に対応する表現行列を $A$ とおきます。

    • $V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ は線型変換であるので、定理 4.54(線型変換の行列表示)により、$\text{id}_{V}$ に対応する表現行列が存在するといえます。
    • $\text{id}_{V}$ の表現行列を $A$ とすれば、$V$ が $n$ 次元ベクトル空間であることから、$A$ は $n$ 次の正方行列になります。
    • また、$V$ の基底を $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ とすれば、同じく定理 4.54(線型変換の行列表示)より、次の関係式が成り立ちます。
      $$ (\, \text{id}_{V} (\bm{v}_{1}), \cdots, \text{id}_{V} (\bm{v}_{n}) \,) = (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A $$

  • $V$ の基底をなすベクトル $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ に着目して、$A = E_{n}$ を導きます。

    • $\text{id}_{V}$ は恒等写像であるので、$1 \leqslant j \leqslant n$ に対して $\text{id}_{V} (\bm{v}_{j}) = \bm{v}_{j}$ が成り立ちます。

      $$ (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) = (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A $$

    • $(\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,)$ のうち $1$ つの要素に注目すれば、次が成り立つことがわかります。

      $$ \begin{array} {cc} \tag{$\ast$} \bm{v}_{j} = \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{ij} & (\, 1 \leqslant j \leqslant n \,) \end{array} $$

      • これは、上の関係式を線型結合の行列表記としてみたとき、行ベクトルの各成分について成り立つ等式といえます。
      • 左辺を $n$ 項行ベクトル $(\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,)$ としてみれば、左から $j$ 番目の成分は $\bm{v}_{j}$ になります。また、右辺を $n$ 項行ベクトル $(\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,)$ と $n$ 次正方行列 $A = (\, a_{ij} \,)$ との積とみなせば、次のようになります。したがって、左から $j$ 番目の成分は $\displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{ij}$ になります。
        $$ (\, \bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n} \,) \, A = \left( \, \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{1j}, \; \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{2j}, \; \cdots, \; \displaystyle \sum_{i}^{n} \, \bm{v}_{i} \, a_{nj} \, \right) $$

    • $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ が $V$ の基底であり線型独立であることから、$a_{ij} = \delta_{ij}$ となります。

      • $j$ を固定すると($\ast$)式は次のように表すことができます。

        $$ \bm{v}_{j} = a_{1j} \, \bm{v}_{1} + a_{2j} \, \bm{v}_{2} + \cdots + a_{jj} \, \bm{v}_{j} + \cdots + a_{nj} \, \bm{v}_{n} \\ \Leftrightarrow \quad a_{1j} \, \bm{v}_{1} + a_{2j} \, \bm{v}_{2} + \cdots + (a_{jj} - 1) \, \bm{v}_{j} + \cdots + a_{nj} \, \bm{v}_{n} = \bm{0} \\ $$

      • $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ が線型独立であることから、$\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ の線型関係は自明でない解を持ちません(自明な解しか持ちません)。

      • したがって、$a_{1j} = 0, \, a_{2j} = 0, \, \cdots, \, a_{jj} = 1, \, \cdots, \, a_{nj} = 0$ となります。つまり、$i \neq j$ ならば $a_{ij} = 0$、$i = j$ ならば $a_{ij} = 1$ であるということです。

      • このことは、すべての $j \; (1 \leqslant j \leqslant n)$ について成り立つので $a_{ij} = \delta_{ij}$ であることがわかります。$\delta_{ij}$ はクロネッカーのデルタを表します。

        $$ \delta_{ij} = \left\{ \begin{array} {cc} 1 & (i = j) \\ 0 & (i \neq j) \end{array} \right. $$

    • 以上から $A = (\, \delta_{ij} \,) = E_{n}$ となります。

    • また、これまでの考察は $V$ の基底 $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ のとり方によりませんので、$V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の行列表示は、基底のとり方によらず単位行列 $E_{n}$ であるといえます。


可換図式

恒等写像の表現行列について可換図式で表すと次のようになります。可換図式については初出の項を参照ください。

恒等写像(恒等変換)とその表現行列(行列表示)に関する可換図式


任意の $\bm{v}$ に対して $\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ が成り立ちます。すなわち、恒等写像(恒等変換)により $\bm{v}$ は $\bm{v}$ 自身に移されます。ここで $\bm{v} \in V$ を基底 $\bm{v}_{1}, \cdots, \bm{v}_{n}$ の線型結合として表したときの座標ベクトルを $\bm{x}$ として、$V$ から $K^{n}$ への同型写像を $\psi$ とすると、$\bm{v}$ と $\bm{x}$ との間に $\bm{x} = \psi(\bm{v})$ が成り立ち、恒等写像 $\text{id}_{V}$ の表現行列 $E_{n}$ は次のように表せます。

$$ \begin{align*} E_{n} = \psi \circ \text{id}_{V} \circ \psi^{-1} \end{align*} $$

このとき、

$$ \begin{split} E_{n} \, \bm{x} &= (\psi \circ \text{id}_{V} \circ \psi^{-1}) \, \bm{x} \\ &= (\psi \circ \text{id}_{V}) \, \psi^{-1} (\bm{x}) \\ &= (\psi \circ \text{id}_{V}) \, (\bm{v}) \\ &= \psi \, (\text{id}_{V} (\bm{v})) \\ &= \psi \, (\bm{v}) \\ &= \bm{x} \\ \end{split} $$

であることから、恒等写像 $\text{id}_{V}$ による関係式 $\text{id}_{V} (\bm{v}) = \bm{v}$ に対応する行列演算が $\bm{x} = E_{n} \, \bm{x}$ であるといえます。また、$\bm{x}$ を $n$ 項列ベクトルとして見れば、任意の $\bm{x}$ に対して $\bm{x} = E_{n} \, \bm{x}$ が成り立つということから、$\text{id}_{V}$ の表現行列が $n$ 次の単位行列であると納得できます。


まとめ

  • $V$ を $n$ 次元のベクトル空間とすると、$V$ における恒等写像 $\text{id}_{V}$ の行列表示は単位行列 $E_{n}$ であり、これは基底のとり方によらない。

参考文献

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[4] 松坂和夫. 線型代数入門 [新装版]. 岩波書店. 2018.
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[7] 雪江明彦. 代数学 $2$ 環と体とガロア理論. 日本評論社. 2010.
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[9] 松坂和夫. 代数系入門. 岩波書店. 1976.
[10] 高木貞治. 代数学講義 [改訂新版]. 共立出版. 1965.
[11] S. Lang. Algebra Revised Third Edition. Springer. 2005.
[12] M. Artin. Algebra Second Edition. Pearson Education Limited. 2014.
[13] 青本和彦 他. 数学入門辞典. 岩波書店. 2005.

初版:2023-04-18   |   改訂:2024-08-28