ベクトル空間の定義
線型代数学においてもっとも重要な概念ともいえるベクトル空間を定義します。
ベクトル空間は、和とスカラー倍の演算に関する $8$ つの公理を満たす集合として定義されます。また、ベクトル空間は、これまでに扱ってきた $n$ 項数ベクトル全体の集合 $\mathbb{K}^n$ や $(m, n)$ 型の行列全体の集合 $M_{m,n} (K)$ などを一般化した概念といえます。
ベクトル空間の定義
定義 4.1(ベクトル空間)
空でない集合 $V$ に和とスカラー倍が定義されていて次の条件を満たすとき $V$ をベクトル空間($\text{vector space}$)という。
($\text{I}$)任意の $\bm{u}, \bm{v} \in V$ に対して和 $\bm{u} + \bm{v} \in V$ が存在し、次の法則を満たす。
($\text{II}$)任意の $\bm{v} \in V$ とスカラー $c \in K$ に対してスカラー倍 $c \bm{v} \in V$ が存在し、次の法則を満たす。
ベクトル空間の要素をベクトルといい $\bm{v}$ のように太字で表します。また、実数全体の集合または複素数全体の集合の要素をスカラーといいます。端的にいえば、スカラーとは、実数または複素数のことです。ここで、実数全体の集合 $\mathbb{R}$ または複素数全体の集合 $\mathbb{C}$ のいずれかを表す記号として $K$ を用いています。記号 $K$ については、行列の定義の項を参照してください。
ベクトル空間の定義は公理的です。($\text{i}$)$\sim$($\text{viii}$)の条件は、集合 $V$ がベクトル空間であるために満たさなければならない条件ですが、これは、ベクトル空間に関する理論を展開する上での基本的な前提事項、すなわち公理であると捉えることができます。以降の考察において導入される概念や定理などは、すべてこの公理の上に組み立てられているということになります。このような意味で($\text{i}$)$\sim$($\text{viii}$)をベクトル空間の公理といいます。
ベクトル空間の公理の各項目についてみていきます。まず、ベクトル空間 $V$ の元(ベクトル)の和について($\text{i}$)結合法則と($\text{ii}$)交換法則が成り立つことが求められています。また、($\text{iii}$)は零ベクトルが存在することを求めています。すなわち、ベクトル空間 $V$ には、任意の $V$ の元 $\bm{v}$ に対して $\bm{v} + \bm{0} = \bm{0}$ となる特別な元 $\bm{0}$ が存在するということであり、これを零ベクトルといいます。同様に($\text{iv}$)は、逆ベクトルの存在を要求しています。すなわち、ベクトル空間 $V$ において、任意の $V$ の元 $\bm{v}$ に対して $\bm{v} + -\bm{v} = \bm{0}$ となる元 $-\bm{v}$ が存在するということであり、これを逆ベクトルといいます。注意すべき点は、零ベクトル $\bm{0}$ や逆ベクトル $-\bm{v}$ を、いわゆる通常の数(例えば実数 $\mathbb{R}$)の演算における $0$ や負の数と同じものと考えてはならないということです。たしかに、実数全体の集合 $\mathbb{R}$ はベクトル空間の $1$ つではありますが、ベクトル空間は実数全体の集合を含む抽象的な概念であり、下の例にみるように、零ベクトルや逆ベクトルは様々な形をとり得ます。スカラー倍に関する公理($\text{v}$)と($\text{vi}$)において、$c, d \in K$ はスカラー、$\bm{u}, \bm{v} \in V$ はベクトルであり、それぞれ別の集合に属する元なので、これを一般的な分配法則と同じとみなすのは危険です。一般的に、同じ集合 $A$ の元 $a, b, c \in A$ について $(a + b) c = ac + bc$ が成り立つことを指して分配法則といいますが、これは($\text{v}$)と($\text{vi}$)には当てはまりません。このように、ベクトル空間の公理は一見して自明な演算規則の集まりのように感じられますが、感覚的に用いると思わぬ落とし穴にはまってしまうので注意が必要です。定理の証明などにおいては、あくまで公理に即した導出を心がけてやりすぎるということはないです。
ベクトル空間の例
具体的なベクトル空間の例をいくつかみます。
($1$)$\{ \bm{0} \}$:$\bm{0}$ のみからなる集合
- もっとも簡単な例として、零ベクトル $\bm{0}$ のみからなる集合 $\{ \bm{0} \}$ はベクトル空間になります。
- ベクトルの和とスカラー倍はそれぞれ $\bm{0} + \bm{0} = \bm{0} , \; c \, \bm{0} = \bm{0} \; (c \in K)$ のように定義されます。
- 公理($\text{iii}$)における零ベクトルは $\bm{0}$ に、公理($\text{iv}$)における逆ベクトルは $-\bm{0} = \bm{0}$ に、それぞれ対応していると捉えることができます。
($2$)$\mathbb{K}^{n}$:$n$ 項数ベクトル全体の集合
- ベクトルの和とスカラー倍の演算によりベクトル空間となります。$K$ の元を成分としていることから、特に $K$ 上のベクトル空間と呼ばれることもあります。
- $n = 1$ の特別な場合として、実数全体の集合 $\mathbb{R}$ と複素数全体の集合 $\mathbb{C}$ を含みます。つまり、 $\mathbb{R}, \, \mathbb{C}$ もベクトル空間であるといえ、零ベクトルは $0$ に、逆ベクトルは負の数にそれぞれ対応しています。
($3$)$M_{m,n} (K)$:$(m, n)$ 型の行列全体の集合
- 行列に関する和とスカラー倍の演算により、$K$ 上のベクトル空間となります。
- 零ベクトルは零行列 $O$ に対応します。$A \in M_{m,n} (K)$ の逆ベクトルは $-A = (-1) \, A$ であり、$A$ のすべての成分を $(-1)$ 倍にした行列になります。
- 逆ベクトルと逆行列は異なるものです。逆行列は行列の積に関する概念であり(正則行列の定義)、ベクトル空間としてみたときの逆ベクトルに対応していません。また、逆行列を持つ行列(正則行列)は正方行列($M_{n} (K)$)に限られますので、一般の $(m, n)$ 型の行列に対して逆行列は考えることができません。
($4$)$\{\, a_n \mid a_n \in \mathbb{R}, \; n = 1, 2, \cdots \,\}$:実数列全体の集合
- 和とスカラー倍をそれぞれ $\{ a_n \} + \{ b_n \} = \{ a_n + b_n \} , \; c \, \{ a_n \} = \{ c \, a_n \}$ と定義することで、$\mathbb{R}$ 上のベクトル空間となります。
- 零ベクトルは $\{ 0 \}$(すべての項が $0$ である数列)であり、逆ベクトルは $- \{ a_n \} = \{ - a_n \}$ に対応します。
($5$)ある区間 $I$ で定義された実数値連続関数全体の集合
- この集合を仮に $V$ として、$f, g \in V , \, c \in \mathbb{R}$ について、和とスカラー倍をそれぞれ $(f + g) (x) = f(x) + g(x) , \; (c f) (x) = c f(x)$ と定義することで、$V$ は $\mathbb{R}$ 上のベクトル空間となります。
- 零ベクトルは区間 $I$ にわたって値が $0$ となるような関数、逆ベクトルは $-f(x) = (-1) \, f(x)$ にそれぞれ対応します。
ここに挙げた例以外にも、$n$ 次多項式全体の集合や連立一次方程式の解全体の集合、線型微分方程式の解全体の集合などがベクトル空間となります。具体的なベクトル空間の例については、特に[1], [4]が詳しいです。
ベクトル空間という抽象的な概念を導入する意義は、このような多様な例に現れていると考えられます。つまり、まったく別の数学的対象を同じ代数的構造を持つベクトル空間として扱うことができるということです。ちなみに、代数学においては、ベクトル空間は環上の加群($\text{module}$)として更に一般化されます。これは、簡単にいえば、公理において定めるベクトルの和(加法)という $2$ 項演算により群であるような集合であると捉えることができます(群の定義)。
まとめ
空でない集合 $V$ に和とスカラー倍が定義されていて次の条件を満たすとき、$V$ をベクトル空間という。
($\text{I}$)和について$$ \begin{array} {clc} (\text{i}) & (\bm{u} + \bm{v}) + \bm{w} = \bm{u} + (\bm{v} + \bm{w}) \\ (\text{ii}) & \bm{u} + \bm{v} = \bm{v} + \bm{u} \\ (\text{iii}) & {}^{\exist} \bm{0} \in V \quad \text{s.t.} \quad {}^{\forall} \bm{v} \in V , \; \bm{v} + \bm{0} = \bm{v} \\ (\text{iv}) & {}^{\forall} \bm{v} \in V , \; {}^{\exist} -\bm{v} \in V \quad \text{s.t.} \quad \bm{v} + (-\bm{v}) = \bm{0} \\ \end{array} $$($\text{II}$)スカラー倍について
$$ \begin{array} {clc} (\text{v}) & (c + d) \bm{v} = c \bm{v} + d \bm{v} & \quad \quad \quad \quad \quad \quad \quad \\ (\text{vi}) & c (\bm{u} + \bm{v}) = c \bm{u} + c \bm{v} \\ (\text{vii}) & (cd) \bm{v} = c (d \bm{v}) \\ (\text{viii}) & 1 \bm{v} = \bm{v} \\ \end{array} $$
参考文献
[1] 齋藤正彦. 線型代数入門. 東京大学出版会. 1966.[2] 永田雅宣 他. 理系のための線型代数の基礎. 紀伊國屋書店. 1986.
[3] 川久保勝夫. 線形代数学 [新装版]. 日本評論社. 2010.
[4] 松坂和夫. 線型代数入門 [新装版]. 岩波書店. 2018.
[5] S. Lang. Linear Algebra Third Edition. Springer. 1987.
[6] 雪江明彦. 代数学 $1$ 群論入門. 日本評論社. 2010.
[7] 雪江明彦. 代数学 $2$ 環と体とガロア理論. 日本評論社. 2010.
[8] 桂利行. 代数学 $\text{I}$ 群と環. 東京大学出版会. 2004.
[9] 松坂和夫. 代数系入門. 岩波書店. 1976.
[10] 高木貞治. 代数学講義 [改訂新版]. 共立出版. 1965.
[11] S. Lang. Algebra Revised Third Edition. Springer. 2005.
[12] M. Artin. Algebra Second Edition. Pearson Education Limited. 2014.
[13] 青本和彦 他. 数学入門辞典. 岩波書店. 2005.