転置行列
転置行列を定義するとともに、転置行列に関して成り立つ演算法則を示します。
定義
定義 2.8(転置行列)
$(m, n)$ 型の行列 $A$ に対して、$A$ の $(i, j)$ 成分を $(j, i)$ 成分とする $(n, m)$ 型の行列を $A$ の転置行列($\text{transpose / transposed matrix}$)といい、${}^t A$ と表す。
要するに、行列 $A$ の行と列を入れ替えた(縦横を逆にした)行列が $A$ の転置行列です。より丁寧に表現すれば、$(m, n)$ 型の行列 $A = (\, a_{ij} \,)$ に対して、$a_{ij} = b_{ji}$ となる $(n, m)$ 型の行列 $B = (\, b_{ji} \,)$ が $A$ の転置行列でありこれを ${}^t A$ と表すというということです。このような表現は一見冗長のようですが、種々の定理の証明などにおいては行列の成分に着目することが多くありますので、元の行列 $A$ とその転置行列 $B$ の成分について $a_{ij} = b_{ji}$ であるということが有用な場面があります。
元の行列 $A$ と転置行列 ${}^t A$ を書き下すと次のようになります。転置行列 ${}^t A$ においては、元の行列 $A$ の各成分が対角線を軸にして折り返した位置に移っていることが確かめられます。
特に $A$ を正方行列としたとき、${}^t A = A$ を満たす行列 $A$ を対称行列($\text{symmetric matrix}$)、${}^t A = -A$ を満たす行列 $A$ を交代行列($\text{alternate matrix}$)といいます。まず、$A$ が対称行列であるとき $a_{ij} = a_{ji}$ が成り立ちます。すなわち、行列 $A$ が ${}^t A = A$ を満たすということは、行列 $A$ の成分が対角線を軸にして対称的であるということですから、これを対称行列と呼ぶということですね。次に、$A$ が交代行列であるとき $a_{ij} = - a_{ji}$ が成り立ちます。すなわち、行列 $A$ が ${}^t A = -A$ を満たすということは、行列 $A$ の成分は転置に対して $(-1)$ 倍になっているということですから、これを対称行列と呼ぶということですね。
多くの教科書([1], [2], [3], [4])で交代行列($\text{alternate matrix}$)という用語が用いられていますが、英語の教科書([5])では、$\text{antisymmetric matrix / skew-symmetric matrix}$ とされていることが多く、それぞれ反対称行列 / 歪対称(わいたいしょう)行列という訳があたっています。これらは同じものを指します。
いま、特に $A$ が正方行列である場合に限り対称行列と交代行列を導入しましたが、転置行列そのものは、あくまで一般の $(m, n)$ 型行列を対象として定義され、特に正方行列に限ったものではない点に注意が必要です。一般の $(m, n)$ 型行列の場合、その転置行列は $(n, m)$ 型行列になりますので、対称行列や交代行列はそもそも定義されません。
演算法則
定理 2.3(転置行列)
転置行列に関して、次の演算法則が成り立つ。
任意の行列 $A, B \in M_{m, n} (K)$ とスカラー $c \in K$ について($\text{i}$)$\sim$($\text{iv}$)が成り立ちます。($\text{i}$)は、行列の和の転置行列がそれぞれの転置行列の和に等しいことを示しています。同様に($\text{ii}$)は、行列の積の転置行列がそれぞれの転置行列の積に等しいことを示していますが、積の順序が入替ることに注意が必要です。($\text{iii}$)は転置行列の転置行列が元の行列に等しいこと、($\text{iv}$)は行列のスカラー倍の転置行列が転置行列のスカラー倍に等しいことを、それぞれ示しています。これらの演算法則は、基本的には転置行列の定義より明らかといえ、行列の各成分に着目することで証明することができます。しかしながら、特に($\text{ii}$)は確認に少し手間がかかりますので、以下にその証明を示します。
($\text{ii}$)の証明
$A = (\, a_{ij} \,), \; B = (\, b_{jk} \,)$ とすると、$AB$ の $(i,k)$ 成分は $\displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{jk}$ であるから、${}^t (AB)$ の $(k,i)$ 成分は $\displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{jk}$ となる。また、${}^t B$ の $(k,j)$ 成分は $b_{jk}$ であり、${}^t A$ の $(j,i)$ 成分は $a_{ij}$ であるから、${}^t B \, {}^t A$ の $(k,i)$ 成分は $\displaystyle \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij}$ となる。 $\sum_{j} a_{ij} \, b_{ij} = \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij}$ であるから、${}^t (AB)$ と ${}^t B \, {}^t A$ の対応する成分が等しい。よって、${}^t (AB) = {}^t B \, {}^t A$ である。$\quad \square$
証明の骨子(要点)
両辺の行列の成分に着目して、行列の積と転置行列の定義にしたがって証明します。
- まず、積が定義できる形で $A, B$ を置きます。
$AB$ が定義できればよいので、$A$ の列の数と $B$ の行の数が等しくなる必要があります。よって、$A$ を $(l, m)$ 型の行列、$B$ を $(m, n)$ 型の行列とします。
また、それぞれの行列の成分を表すために、 $l, m, n$ に対応させて $i, j, k$ を用いることにします。それぞれ、$i = 1, \cdots, l \; . \quad j = 1, \cdots, m \; . \quad k = 1, \cdots, n \; .$ とします。
以上から、$A, B$ を次のように置きます。
$$ \begin{gather*} \begin{array} {cc} A = (\, a_{ij} \,), & B = (\, b_{jk} \,) \end{array} \\ ( \begin{array} {ccc} i = 1, \cdots, l \; . & j = 1, \cdots, m \; . & k = 1, \cdots, n \end{array} ) \end{gather*} $$証明においては $A, B$ の成分に着目しており、$A, B$ の型は必ずしも明示する必要がありませんので、$l, m, n$ という文字は明示していません。$i, j, k$ がそれぞれ異なる自然数であることが明示できていれば、証明として必要最小限の記述を満たしているといえます。もちろん、$l, m, n$ を明示しても問題なく、むしろより丁寧です。
- ${}^t (AB)$ と ${}^t B \, {}^t A$ それぞれの成分を計算します。
まず、${}^t (AB)$ を計算します。
行列の積の定義より、$AB$ の $(i, k)$ 成分は $\displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{jk}$ です。
転置行列の定義より、${}^t (AB)$ の $(k, j)$ 成分は $AB$ の $(i, k)$ 成分と等しく $\displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{jk}$ となります。
よって、${}^t (AB)$ は次のように表せます。
$$ \begin{align*} {}^t (AB) = \left( \sum_{j} a_{ij} \, b_{jk} \right) \end{align*} $$このことをより丁寧に示すと、次のように理解できます。仮に、$P = AB, \; Q = {}^t P = {}^t (AB)$ とおくと、$P, Q$ はそれぞれ $(l,n)$ 型、$(n,l)$ 型の行列となります。また、$P, Q$ を成分で表して $P = (\, p_{ik} \,), \; Q = (\, q_{ki} \,)$ とすると、転置行列の定義から $p_{ik} = q_{ki}$ が成り立ちます。このことと $p_{ik} = \displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{ij}$ を合わせて考えると、$q_{ki} = \displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{ij}$ となります。
次に、${}^t B \, {}^t A$ を計算します。
まず、${}^t B$ の $(k,j)$ 成分は $B$ の $(j, k)$ 成分と等しく、$b_{jk}$ となります。
同様に、${}^t A$ の $(j, i)$ 成分は $A$ の $(i, j)$ 成分と等しく、$a_{ij}$ となります。
よって、行列の積の定義より、${}^t B \, {}^t A$ の $(k,i)$ 成分は $\displaystyle \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij}$ となり、${}^t B \, {}^t A$ は次のように表せます。
$$ \begin{align*} {}^t B \, {}^t A = \left( \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij} \right) \end{align*} $$より丁寧に示すと、次のように理解できます。仮に、$S = {}^t A, \; T = {}^t B$ とおくと、$S, T$ はそれぞれ $(m, l)$ 型、$(n, m)$ 型の行列となります。また、$S, T$ を成分で表して $S = (\, s_{ji} \,), \; T = (\, t_{kj} \,)$ とすると、転置行列の定義から $a_{ij} = s_{ji}, \; b_{jk} = t_{kj}$ がそれぞれ成り立ちます。ここで、積 $U = TS = {}^t B \, {}^t A$ を考えると、これは $(n, l)$ 型の行列となり、定義より $u_{ki} = \displaystyle \sum_{j} t_{kj} \, s_{ji} = \displaystyle \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij}$ となります。
以上から、${}^t (AB)$ の $(k, i)$ 成分は $\displaystyle \sum_{j} a_{ij} \, b_{jk}$ であり、${}^t B \, {}^t A$ の $(k, i)$ 成分 $\displaystyle \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij}$ であることがわかりました。これらの和の対象は積の順序によらないので、2つの成分は一致します。
$$ \begin{align*} \sum_{j} a_{ij} \, b_{ij} = \sum_{j} b_{jk} \, a_{ij} \end{align*} $$2つの行列 ${}^t (AB)$ と ${}^t B \, {}^t A$ の対応する成分が等しいので、${}^t (AB) = {}^t B \, {}^t A$ となり、題意が示されました。
複数の転置行列とその積を考える必要があるため若干ややこしいですが、添え字に注意して丁寧に計算すれば、定義のみに従って示すことができます。また、一見遠回りですが、上の $P, Q, S, T$ のように転置行列に新たな文字を振り分けるとミスなく考えを進めることができます。
まとめ
- 行列 $A$ の $(i, j)$ 成分を $(j, i)$ 成分とする行列を $A$ の転置行列といい、${}^t A$ と表す。
- $A = (\, a_{i,j} \,)$ の転置行列を $B = (\, b_{j,i} \,)$ とすると、$a_{i,j} = b_{j,i}$ が成り立つ。
- 特に $A$ が正方行列のとき、${}^t A = A$ ならば対称行列、${}^t A = -A$ ならば交代行列という。
参考文献
[1] 齋藤正彦. 線型代数入門. 東京大学出版会. 1966.[2] 永田雅宣 他. 理系のための線型代数の基礎. 紀伊國屋書店. 1986.
[3] 川久保勝夫. 線形代数学 [新装版]. 日本評論社. 2010.
[4] 松坂和夫. 線型代数入門 [新装版]. 岩波書店. 2018.
[5] S. Lang. Linear Algebra Third Edition. Springer. 1987.
[6] 雪江明彦. 代数学 $1$ 群論入門. 日本評論社. 2010.
[7] 雪江明彦. 代数学 $2$ 環と体とガロア理論. 日本評論社. 2010.
[8] 桂利行. 代数学 $\text{I}$ 群と環. 東京大学出版会. 2004.
[9] 松坂和夫. 代数系入門. 岩波書店. 1976.
[10] 高木貞治. 代数学講義 [改訂新版]. 共立出版. 1965.
[11] S. Lang. Algebra Revised Third Edition. Springer. 2005.
[12] M. Artin. Algebra Second Edition. Pearson Education Limited. 2014.
[13] 青本和彦 他. 数学入門辞典. 岩波書店. 2005.