内積の定義
内積が定義されたベクトル空間を計量ベクトル空間といいます。
内積はベクトル空間上の演算であり、エルミート対称性や共役線型性、正値性などの性質を持ちます。ここでは、内積を公理的に定義するとともに、定義から直ちに導かれる演算規則を示します。
内積と計量ベクトル空間の定義
まず、内積を公理的に定義し、内積により計量ベクトル空間が定まることを示します。
定義 7.1(内積と計量ベクトル空間)
を 上のベクトル空間とする。 の任意の つの元 に対して の元 が定まり、次の条件を満たすとき、 を と の内積( )という。
また、内積が定義されたベクトル空間を、計量ベクトル空間( )という。
解説
ベクトルの内積とは
ベクトル空間上の演算
内積とはベクトル空間上の演算であり、上の()()の演算規則を満たすものとして定義されます。
写像としての内積
すなわち、内積は、 つのベクトル( の元)に対してある値( の元)を定めるものであり、これを写像と捉えれば、 と表すことができます。ここで、内積を表す記号 " " は、 と の直積から への写像であるということができます。
内積の記号
内積を表す記号は、教科書により様々に異なりますが、主には、次の記号が用いられています。
ここでは、平面と空間のベクトルにおいて、幾何ベクトルに対して導入した内積と同じ記号 を用いることとします。
内積の公理(内積の性質)
上記の通り、ベクトルの内積は公理的に定義されています。
すなわち、内積の演算は、次の条件()()を満たす必要があります。これらは、定義により、内積に元から備わっている性質ともいえます。
ベクトルの内積が満たすべき条件
エルミート対称性
条件()は、 と の内積 が、 と の内積の複素共役 に等しいことを求めています。これは、エルミート対称性と呼ばれる性質であり、ベクトルの順序を入れ替えた内積の値が、もとの内積の値の複素共役となることを示しています。
分配法則
条件()は、ベクトルの内積に関して分配法則が成り立つことを要求するものです。下記の定理 7.1(内積の基本的性質)に示すように、 が成り立つことも定義より直ちに示すことができます。
共役線型性
条件()は、ベクトルのスカラー倍の内積 が、内積のスカラー倍 に等しいことを要求するものです。条件()についても、類似する式 が成り立つことを定理 7.1(内積の基本的性質)に示します。これらを合わせて、内積の共役線型性といいます。
正値性
条件()は、ベクトルの内積が実数であり、しかも常に 以上であることを示しています。条件()と合わせて考えれば であることから が実数であることは明らかです。その上で は常に 以上であることが求められており、この性質を内積の正値性といいます。
内積とエルミート内積
内積の定義の仕方の違い(実数か複素数か)
ベクトル空間が実数 上で定義されているか、複素数 上で定義されているかにより、内積の定義の仕方は若干異なります。
上記の定義において、記号 は実数全体の集合 もしくは複素数全体の集合 のいずれかを表しています(ベクトル空間の定義などを参照)。しかしながら、条件()などは、明らかに の場合を前提としています。
実数全体 は複素数全体 に含まれる(部分体である)ため、どちらの場合にも対応できるよう、上記のように定義していますが、 上のベクトル空間における内積と 上のベクトル空間における内積を別々に定義している教科書もあるので注意が必要です([3] など)。例えば、 の場合、条件()は となり、複素共役を表す記号 " " は不要になります。
定義による用語の使い分け
上のベクトル空間における内積を、そのまま「内積」といい、 上のベクトル空間における内積を、特に「エルミート内積( )」と呼ぶこともあります([3] など)。
また、[1] では、内積の定義は上記と同様に つにまとめつつ、 上のベクトル空間の内積を、特に「エルミート積( )」と呼んでいます。
計量ベクトル空間とは
計量ベクトル空間とは内積が定義されたベクトル空間です。
空ではない集合 がベクトル空間の公理に加えて内積の公理を満たすとき、 は計量ベクトル空間であるといえます。つまり、計量ベクトル空間 においては、ベクトルの和とスカラー倍に加えて内積の演算が定義されているということです。
実計量ベクトル空間( の場合)を「ユークリッド空間( )」、複素計量ベクトル空間( の場合)を「ユニタリー空間( )」と呼ぶこともあります。
内積の公理から直ちに導かれる性質
次に、内積の公理から直ちに導かれる性質について示します。これは、内積の公理の()分配法則と()共役線型性の別の形を示すものです。
定理 7.1(内積の基本的性質)
を 上の計量ベクトル空間とする。任意のベクトル とスカラー に対して、次が成り立つ。
解説
内積の分配法則と共役線型性の別形
定理 7.1(内積の基本的性質)は、内積の公理の()分配法則と()共役線型性を別の形で表したものです。
すなわち、定理 7.1の()と()は、内積の公理の()と()にそれぞれ対応しており、公理の式における、内積の第 変数と第 変数を入れ替えたものです。
下記の証明にみるように、これらの性質は他の内積の公理から直ちに導かれる性質です。
内積の共役線型性
線型性と共役線型性
定理 7.1(内積の基本的性質)の()より、ベクトルの内積は第 変数について線型であり、第 変数について共役線型であるといえます。
第 変数がベクトルのスカラー倍()で第 変数がベクトル()であった場合、内積は元のベクトルの内積()の 倍となります(内積の公理())。
一方で、第 変数がベクトル()で第 変数がベクトルのスカラー倍()であった場合、内積はもとのベクトルの内積の 倍になります(定理 7.1())。この場合、内積の値は 倍ではなく の複素共役倍となる点に注意が必要です。また、このような性質を共役線型性といいます。
したがって、ベクトルの内積は、第 変数について線型であり、第 変数について共役線型であるといえます。
共役線型な変数と教科書による違い
因みに、内積を第 変数について共役線型で第 変数について線型であるように定義することもできます。このように定義しても、他の定義や定理と整合をとることができるからです。つまり、第 変数と第 変数のいずれが共役線型であるかは本質的な差異を生みません。
上記と同様に、第 変数について線型で第 変数について共役線型であるように定義している教科書としては、[1], [2], [3], [6] などがあります。一方で、例えば [4] においては、第 変数について共役線型で第 変数について線型であるように定義しています。
証明
()
()
証明の考え方
いずれも、内積の公理から直ちに導くことができます。
(ii ′ \text{ii}^{\prime} )の証明
内積の(
)エルミート対称性と(i \text{i} )分配法則より、次が成り立ちます。ii \text{ii} x ⋅ ( y + z ) = ( 1 ) ( y + z ) ⋅ x Z ‾ = ( 2 ) y ⋅ x + z ⋅ x Z ‾ = ( 3 ) y ⋅ x Z ‾ + z ⋅ x Z ‾ = ( 4 ) x ⋅ y + x ⋅ z \begin{align*} \bm{x} \cdot (\bm{y} + \bm{z}) &\overset{(1)}{=} \overline{(\bm{y} + \bm{z}) \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} \\ &\overset{(2)}{=} \overline{\bm{y} \cdot \bm{x} + \bm{z} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} \\ &\overset{(3)}{=} \overline{\bm{y} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} + \overline{\bm{z} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} \\ &\overset{(4)}{=} \bm{x} \cdot \bm{y} + \bm{x} \cdot \bm{z} \end{align*} - (
)エルミート対称性により、変数の順序を入れ替えることで、内積の値はもとの値の複素共役となります(内積の公理(1 1 ))。i \text{i} - (
)内積に関して、分配法則が成り立ちます(内積の公理(2 2 ))。ii \text{ii} - (
)3 3 とy ⋅ x \bm{y} \cdot \bm{x} をそれぞれ複素数とみれば、y ⋅ x \bm{y} \cdot \bm{x} つの複素数の和の複素共役は、それぞれの複素数の複素共役の和に等しくなります。2 2 - これは、複素数について一般に成り立つ演算規則です。
- (
)再びエルミート対称性により、変数の順序の入れ替えにより、4 4 とy ⋅ x Z ‾ = x ⋅ y \overline{\bm{y} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} = \bm{x} \cdot \bm{y} が成り立ちます(内積の公理(z ⋅ x Z ‾ = x ⋅ z \overline{\bm{z} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} = \bm{x} \cdot \bm{z} ))。i \text{i}
- (
(iii ′ \text{iii}^{\prime} )の証明
内積の(
)エルミート対称性と(i \text{i} )共役線型性より、次が成り立ちます。iii \text{iii} x ⋅ ( d y ) = ( 1 ) ( d y ) ⋅ x Z ‾ = ( 2 ) d ( y ⋅ x ) Z ‾ = ( 3 ) d ( ) ‾ ( y ⋅ x ) Z ‾ = ( 4 ) d Z ‾ ( x ⋅ y ) \begin{align*} \bm{x} \cdot (d \, \bm{y}) &\overset{(1)}{=} \overline{(d \, \bm{y}) \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} \\ &\overset{(2)}{=} \overline{d \, (\bm{y} \cdot \bm{x}) \vphantom{Z}} \\ &\overset{(3)}{=} \overline{\, d \, \vphantom{()}} \; \overline{(\bm{y} \cdot \bm{x}) \vphantom{Z}} \\ &\overset{(4)}{=} \overline{\, d \, \vphantom{Z}} \, (\bm{x} \cdot \bm{y}) \end{align*} - (
)エルミート対称性により、変数の順序を入れ替えることで、内積の値はもとの値の複素共役となります(内積の公理(1 1 ))。i \text{i} - (
)内積の第2 2 変数に関する線型性によります(線型性と共役線型性を参照)。1 1 - 第
変数がベクトルのスカラー倍である場合、その内積1 1 は( d y ) ⋅ x (d \, \bm{y}) \cdot \bm{x} に等しくなります(内積の公理(d ( y ⋅ x ) d \, (\bm{y} \cdot \bm{x}) ))。iii \text{iii} - これは、内積の第
変数に関する共役線型性が、第2 2 変数に関する線型性から導かれることを意味しています。1 1
- 第
- (
)3 3 とd ( ∈ K ) d \; ( \in K ) をそれぞれ複素数とみれば、y ⋅ x \bm{y} \cdot \bm{x} つの複素数の積の複素共役は、それぞれの複素共役の積に等しくなります。2 2 - これは、複素数について一般に成り立つ演算規則です。
- (
)再びエルミート対称性により、変数の順序の入れ替えにより、4 4 が成り立ちます(内積の公理(y ⋅ x Z ‾ = x ⋅ y \overline{\bm{y} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} = \bm{x} \cdot \bm{y} ))。i \text{i}
- (
まとめ
をV V 上のベクトル空間とする。K K の任意のV V つの元2 2 に対してx , y \bm{x}, \bm{y} の元K K が定まり、次の条件を満たすとき、x ⋅ y \bm{x} \cdot \bm{y} をx ⋅ y \bm{x} \cdot \bm{y} とx \bm{x} の内積(y \bm{y} inner \text{inner} )という。product \text{product} ( i ) x ⋅ y = y ⋅ x Z ‾ ( ii ) ( x + y ) ⋅ z = x ⋅ z + y ⋅ z ( iii ) ( c x ) ⋅ y = c ( x ⋅ y ) ( iv ) x ⋅ x ⩾ 0 \begin{equation*} \begin{alignat*} {2} & \, \, (\text{i}) & \bm{x} \cdot \bm{y} &= \overline{\bm{y} \cdot \bm{x} \vphantom{Z}} \\ & \, (\text{ii}) & \quad (\bm{x} + \bm{y}) \cdot \bm{z} &= \bm{x} \cdot \bm{z} + \bm{y} \cdot \bm{z} \\ & (\text{iii}) & (c \, \bm{x}) \cdot \bm{y} &= c \, (\bm{x} \cdot \bm{y}) \\ & (\text{iv}) & \bm{x} \cdot \bm{x} &\geqslant 0 \\ \end{alignat*} \end{equation*} 内積が定義されたベクトル空間を、計量ベクトル空間(
metric \text{metric} vector \text{vector} )という。space \text{space}
参考文献
[1] 齋藤正彦. 線型代数入門. 東京大学出版会. 1966.
[2] 永田雅宣 他. 理系のための線型代数の基礎. 紀伊國屋書店. 1986.
[3] 川久保勝夫. 線形代数学 [新装版]. 日本評論社. 2010.
[4] 松坂和夫. 線型代数入門 [新装版]. 岩波書店. 2018.
[5] 三宅敏恒. 線形代数学 初歩からジョルダン標準形へ. 培風館. 2008.
[6] S. Lang. Linear Algebra Third Edition. Springer. 1987.
[7] T. Miyake. Linear Algebra From the Beginnings to the Jordan Normal. Springer. 2022.
[8] 雪江明彦. 代数学
[9] 雪江明彦. 代数学
[10] 桂利行. 代数学
[11] 松坂和夫. 代数系入門. 岩波書店. 1976.
[12] 高木貞治. 代数学講義 [改訂新版]. 共立出版. 1965.
[13] S. Lang. Algebra Revised Third Edition. Springer. 2002.
[14] M. Artin. Algebra Second Edition. Pearson Education Limited. 2014.
[15] 青本和彦 他. 数学入門辞典. 岩波書店. 2005.